可愛く、美しくありたいと望む権利。
手をかけていない自分を他人に見せるのが嫌いだ。
数年前はそんなことはなかったのに、気づけば自分磨きをしないと気が済まない。
外出する前は、妥協なく洋服を選び、不器用ながらメイクを施し、髪を整える。
肌をきれいに保ちたいとスキンケアは入念に、最近ではヨガやダンス、ストレッチなども毎日取り組むくらい、”意識高い”人になりつつある。
数年前の私からしたら意味がわからないだろう。
自信がついてきた頃から、自分に手をかけるようになった気がする。
自分の顔や体型が恥ずかしくて、下を向いて歩いていた
高校を卒業するまではメイクすることに親が良い顔をしなかったので、100円均一ショップの透明マスカラくらいしか持っていなかった。
マスカラをするだけで目が少し大きくなった気がして、急に怖くなって速攻落としたなんて経験もあった。
メイクをするなんて、私にはおこがましい行為だ。
可愛くもないくせに、頑張ってるなんて思われたら恥ずかしくて死んでしまう。
誰にも見られないように、正体を隠すように、下を向いて歩いていた。
最近、桜を眺めながら歩くことが多いけれど、前はそういった楽しみもなく、下を向いて黙々と目的地に向かっていたのを思い出す。
ここで不思議なのが、自分の顔や体型が好みでないのに、手をかけることは恥ずかしい行為であると思ってやってこなかったことだ。
今思うに、私はあきらめていたのだ。
どうせ手をかけたって無駄。
それならやらない方がまし。ほら、すっぴんの方がいいなんて発信もあるでしょ。
天性で可愛いわけではないんだから、努力で自分を磨いていくべきなのに、自分をあきらめていたから美しくなる権利を放棄していたのだと思う。
自分に興味が湧いてくると、鏡の中の私に手をかけていないことが恥ずかしくなった
自分に意識を向ける癖がついてくると、鏡の中の自分に手をかけていないことが無性に嫌になった。
人は外見じゃない、中身だなんて言うけれど、外見は自分の内面が映し出されたものだと思う。
自分をあきらめていた私の内側が、まったく手をかけてもらえなかった外見に反映されていたように。
自分をあきらめなくなってから、せめて自分だけでも「私って悪くないんじゃない?」と思えるように工夫をすることが大切だと思うようになった。
美しくあろうとする気遣いは他の誰でもない、自分のために行うようになった。
自らを可愛く、美しくしようとすることは、私自身への敬意
美容って、自己満足的行為だと思っている。
「いやいや、たいして可愛くもないのに手をかけるなんてダサwww」と言われることもあるかもしれない。
だけど、「可愛くありたい、美しくありたい」と思うことは持って生まれた権利だから、再びあきらめない限りは放棄するつもりはない。
今、可愛くない、美しくないことが悪いわけではない。
それらをあきらめている姿勢だと、自分への敬意が足りていないように感じてしまうだけだ。
生涯、自分に対して尊敬の念を抱き続けていきたいから、今日も私は自分を磨くのだ。